日ブラジル外交関係樹立130年の歴史(19世紀~1940年代)
令和7年1月15日

19世紀~1940年代:日伯関係の始まりから関係の中断
1895年、日伯修好通商航海条約をもって両国間に外交関係が樹立。農業労働者不足のため各国から移民を受け入れていたブラジルは、1908年の笠戸丸以降多くの日本移住者を受け入れた。一方で有色人種移民規制の潮流の中、1934年のブラジル憲法では実質日本人移住者を制限する条項が盛り込まれた。その後第二次世界大戦で敵国となった日伯間では1941年を最後に移民船が中止され、1942年に国交断絶に至った。1908年から1941年までの33年間、約19万人の日本人移住者がブラジルに渡った。
1803年
海上漂流中にロシア軍艦に救助された日本人4名が、日本へ送還の途中、サンタ・カタリーナ州フロリアノポリスに上陸。ブラジルの土を踏んだ最初の日本人といわれている。
1867年
榎本武揚(えのもと たけあき)が乗船する軍艦開陽丸のリオデジャネイロ寄港。
1874年
フランス天体観測隊の一員として、ブラジル人のアルメイダ博士が訪日。
1880年
ブラジル軍艦ヴィタール・デ・オリヴェイラ号日本寄港。
1889年
ブラジル軍艦アルミランテ・バローゾ号の横浜港入港。乗組員および同乗の皇孫オーギュスト殿下が明治天皇に謁見。その帰路、大武和三郎(おおたけ わさぶろう)(日本初のポルトガル語辞書の編者)が乗船。
1894年
前年に榎本武揚によって設立された殖民協会幹事の根本正(ねもと ただし)が訪伯。
1895年
11月5日、曾禰荒助(そね あらすけ)駐仏日本公使とアルメイダ駐仏ブラジル公使により、フランス・パリにて「日伯修好通商航海条約」(「日本国及伯剌西爾合衆国間修好通商航海条約」)が調印され、正式に外交関係が樹立。

1897年
条約の批准書交換が行われ、当時の首都リオデジャネイロ州ペトロポリス市に日本公使館が設置。珍田捨巳(ちんだ すてみ)が初代駐ブラジル日本公使、エンリケ・バルボーザが初代駐日ブラジル公使に着任。
1905年
杉村濬(すぎむら ふかし)駐ブラジル公使が着任。当時の大統領等から移住者受け入れの話が相次いだため、同年日本人の移住先としてサンパウロ州を推奨する視察の復命書を作成し、日本政府に送付。
1907年
訪伯した皇国殖民会社の水野龍(みずの りょう)とボテリョ・サンパウロ州農務長官の間で「3年間のうちに3人以上の日本人家族3千人を誘入する」契約に正式調印。
1908年
初のブラジルへの日本移民船である笠戸丸が日本人移住者718名を乗せ神戸を出発。シンガポール、喜望峰経由で6月18日にサントス港へ到着。

「笠戸丸移民名簿」 外交史料館
1910年
軍艦生駒がリオデジャネイロへ寄港。日本船による初のブラジル公式訪問。
1915年
サンパウロ総領事館の開設。松村貞雄(まつむら さだお)が初代総領事に就任。
1922年
ブラジル独立百年祭に際し、日本政府は海軍練習艦三隻を派遣し、当時の堀口九萬一(ほりぐち くまいち)駐伯公使が特派大使として参列。
1926年
神戸にて「日伯協会」が設立。
1928年
神戸に日本初の「国立移民収容所」(のちの神戸移住センター)が開所。
1932年
「日伯中央協会」設立。高松宮殿下が総裁に就任。
1934年
「移民二分制限条項」を含むブラジル憲法が成立。毎年の移民受入数を、1933年までの過去50年間の定住数の二分(2%)に各国一律で制限する旨規定。日本人移住者については、当時の日本人移住者の定着数142,457人を基準に、その2%に相当する2,849人に制限。
民間外交として、川崎造船社長の平生釟三郎(ひらおはち さぶろう)を団長とするブラジルへの経済使節団を派遣。答礼としてブラジル経済使節団が訪日。
1939年
日本病院(日伯慈善会サンタクルス病院)が開院。地上5階、地下1階、病室76、病床200の総合病院で、当時としてブラジル有数の設備を誇った。
1940年
サンパウロに日本商業会議所が開設。「日伯文化協定」(「文化的協力に関する日本国ブラジル国間条約」)が調印。日本が米州諸国と交わす最初の文化協定となる。翌年11月に批准書を交換したが、まもなく日伯の国交が断絶したため、ほとんど効力を発揮しないまま失効。
1941年
第二次世界大戦前最後の移住者を乗せた「ぶえのすあいれす丸」が神戸港を出発。両国の国交断絶によりブラジルへの移住は中断。1908年以降、33年間で合計188,986人の日本人が移民としてブラジルに入国したとされる。
1942年
1月、リオデジャネイロで開催された米州外相会議の最終日、アラニャ外相は日本との国交断絶を宣言。
19世紀~1940年代 / 1950年代~1980年代 / 1990年代~現在